弊社より発行しました『人生つれづれニャるままに 兼好法師』に、一部掲載ミスがありましたので、ご報告申し上げます。
◎訂正部分
巻末「『徒然草』原文」のp135〜136に、
[【第五十八段】「道心あらば住む所にしもよらじ、家にあり、人に交はるとも、後世を願はんにかたかるべきかは」と言ふは……]
とありますが、本書では「第五十八段」の口語訳を掲載しておりません。
当該部分に本来掲載されるはずだった原文は【第五十六段】で(口語訳はp30〜31)、以下のとおりとなります。
【第五十六段】
久しく隔りて逢ひたる人の、我が方にありつること、かずかずに殘りなく語りつづくるこそ、あいなけれ。隔てなく馴れぬる人も、ほどへて見るは、恥しからぬかは。つぎざまの人は、あからさまに立ち出でても、今日ありつることとて、息もつぎあへず語り興(きょう)ずるぞかし。よき人の物語するは、人あまたあれど、ひとりに向きて言ふを、おのづから人も聞くにこそあれ、よからぬ人は、誰ともなく、あまたの中にうち出でて、見ることのやうに語りなせば、皆同じく笑ひののしる、いとらうがはし。をかしきことをいひてもいたく興ぜぬと、興なきことをいひてもよく笑ふにぞ、品(しな)のほど計られぬべき。
人のみざまのよしあし、才(ざえ)ある人はそのことなど定めあへるに、おのが身にひきかけて言ひ出でたる、いとわびし。
【現代語訳】(p30~31に掲載)
長く離れていて久しぶりに逢った人が、自分の身の上話をずっとあれこれ話し続けるのは、つまんないですよね。たとえどれだけ仲がよくても、久々に逢ったのであれば多少は気を遣うべきでしょう。二流の人は、ちょっと出かけただけで今日あったことを息継ぐ間もなく立て続けに話して喜んだりしますよね。いっぽう一流の人が話すと、どれほどそこにたくさん人がいても、その中のたったひとりに向けて話しているようで、自然とそれにみんなが耳を傾けるようになります。
人のルックスや教養についてあれこれ論評している時に、自分のことを引き合いに出すのは、ホント耐えられないですよ。
◎対処方法
2刷以降の修正を予定しております。ご迷惑をおかけして、大変申し訳ありませんでした。
なお参考までに、【第五十八段】の原文と口語訳は以下のとおりです。
【第五十八段】
「道心あらば住む所にしもよらじ、家にあり、人に交はるとも、後世を願はんかたかるべきかは」と言ふは、さらに後世知らぬ人なり。げにはこの世をはかなみ、必ず生死を出でむと思はんに、何の興ありてか、朝夕君に仕へ、家を顧る営みのいさましからん。心は縁にひかれて移るものなれば、閑(しづ)かならでは道は行じがたし。
そのうつはもの、昔の人に及ばず、山林に入りても、飢(うゑ)を助け、嵐を防ぐよすがなくてはあられぬわざなれば、おのづから世を貪るに似たることも、たよりにふればなどかなからん。さればとて、「背けるかひなし。さばかりならば、なじかは捨てし」など言はんは、無下のことなり。さすがに一度道に入りて、世を厭はん人、たとひ望みありとも、勢ひある人の貪欲多きに似るべからず。紙の衾(ふすま)、麻の衣(ころも)、一鉢のまうけ、藜(あかざ)の羮(あつもの)、いくばくか人の費(つひ)えをなさん。求むる所はやすく、その心早く足りぬべし。かたちに恥づる所もあれば、さはいへど、悪にはうとく、善にはちかづくことのみぞ多き。
人と生れたらんしるしには、いかにもして世を遁(のが)れんことこそあらまほしけれ。ひとへに貪ることをつとめて、菩提(ぼだい)におもむかざらんは、よろづの畜類にかはる所あるまじくや。
【現代語訳】
「仏道の修行をしようという心構えがあるなら、住む場所は関係ないですよね。たとえ家族と一緒に住んで、他人とつき合っていても、死んだあとの世界のことを願う気持ちに変わりはないのですから」と言うのは、極楽往生を理解していない人の意見である。本当に現世を仮の世界だと思い、生死を超越してやろうと思うのなら、何が面白くて、朝から晩まで仕事や家庭のために尽くすのでしょう。心というものは周囲の雰囲気にうつろうものだから、余計な雑音があったら修行などできっこありません。
仏道修行への思いは、昔の人には到底及ばないから、この頃の人は山林に籠もっても、餓えをしのいで嵐を防ぐ何かがなければ生きていくこともできないわけで、一見俗世にまみれていると、見方によっては「修行中」と見えないこともない。けれども「それでは世を捨てた意味もない。そんなことならどうして世を捨てたのだろう」などと言うのは、おかしな話だ。
やはり、一度は俗世間を捨てて、仏の道に足を踏み入れ、厭世生活をしているのだから、たとえ欲があっても、権力者の強欲さとは比較できないほど小さいものだ。紙で作った布団や麻の衣服、お椀一杯の主食に雑草の吸い物、こんな欲求は世間ではどれぐらいの出費になるだろう。だから、欲しい物は簡単に手に入り、欲求もすぐに満たされる。また、恥ずかしい身なりをしているので、世間に関わると言っても、修行の妨げになることからは遠ざかり、修行にプラスになること以外には近寄ることもない。
人間として生まれてきたからには、何が何でも世間を捨てて山籠もり生活を営むことが理想である。節操もなく世の中の快楽をむさぼることに忙しく、究極の悟りを願わないとすれば、そこらの動物と変わることがないだろう。